文化学院というネバーランド

わたしの母校は、文化学院という小さな小さな専修学校
自由な校風、という学校は多々あるけれど、文化学院の自由な校風は
もう、ド級の自由である。

たぶん今は変わってしまっているから、10年以上前にこんなネバーランドな場所があったことだけを書く。
きっと真面目な学生さんは、真面目な方は、怒るかもしれない。

ごめんなさい。

文化の場合、校歌はない。昔、叔父の代で誰かが作ったらしいが、却下された。
作った人たちは、今テレビで歌ったり演奏したり、しているそうだ。
この頃、屋根が腐っているから屋根で昼寝をしない!というルールができた。
古いのだ。学校が。

わたしの頃も、新校舎とは名ばかりの新校舎が、震度2で
怪奇現象かという程度に、ガッタガタと鳴った。
卒業した後、その校舎は全て取り壊されたから、
もうあの音は聴けない。

ド級の自由に戻ると、

まず、GW前に生徒がしれっと消える。
長めのGWで…
夏休みが明けると、ただでさえ少ない生徒が半分になる。
なんだろう?海外にでも行ったのかしら?

先生は特に気にしない。

一度だけ

「もう夏休みは終わりました。単位が取れませんよ、学校においで」

という内容ハガキが全生徒宛に届いたことがあるくらい、生徒がいなくなる。
ちなみに、このハガキは学長先生が知らないところで発送されたようで、
その事実を知った学長先生は、とても怒った。

「今、自分のやりたいことを見つけた子がいて、それを一生懸命頑張っていたらどうするの?無理に来させるの?それは教育じゃないよ」

こんな先生が学長先生だった。

女の子が大好きで、いつもにこにこしていて、素敵なおじいちゃまだった。

だから在籍する先生もフリーーーーーダムだ。
世間の常識はあまり存在しない。
だけど、存在しないから私は救われた。

「なにもないよ、特技なんて。私にはなにもない」

とメンタルがダークサイドだった私が特技を聞いた先生に返したら、
その先生はすごく嬉しそうに微笑んで

「そうかー!じゃあ、お前はないがあるんだ」

と、返してくれた。
そんなことはないだとか、誰でもいいところがあるだとか、綺麗事は言わなかった。
ただ笑って、ないがあるんだな!って返してくれる。
そんなことばが、ジワリと沁みる。

まるで詭弁のようだけど、綺麗事よりよほど美しく感じた。

生徒と目も合わせられない人見知りの先生もいた。
現代詩では高名な先生だけど、もう講義は先生が語る。
ちょっとした一人舞台のようで、見入ってしまった。

その先生のゼミで、小間使いをしていた。

シャイで人とうまく話せない父がいたので、先生がかわいくなっちゃったです。

目も合わせてくれないけれど、

「先生、体調は?」
「うん、悪くないよッ」(だいたい語気が荒い)
「コピー終わったよ」
「ああ、もう置いてあんたはあっち行って!」

一年中、こんな感じなのだけど、
一度だけ、先生は勇気を出してコーヒーをすすめてくれた。

「ちょっと!あんた!コーヒー!コーヒー飲む?」

怒鳴ってたし、顔はそっぽを向いていた。
嬉しかったので、いただいた。

オカルトなお話もある。

 

文化学院は戦時中に、国に強制閉校をさせられたことがある。
確か米兵さんをどうのこうの……
夜になると、傷だらけの兵士が歩いている話はたまに聞いた。

会っちゃった先生から。

戦時中、文化学院は捕虜収容所となっていたため、米軍の空襲を免れ、そのおかげで近くの山の上ホテルも焼けずに済んだという。

 

いまさらだけど、文化学院を作ったのは
西村伊作という建築家の人だ。
可愛い娘を預ける学校がないんだもん、作っちゃう!と作っちまった。
金持ちだったから。

長女アヤの小学校卒業を機に伊作はあらゆる女学校などを見て回るが自分の教育方針に適する学校がないと考え、娘のために自らが考える真の学校教育を模索し、さまざまな芸術家、文化人との交流のなか、歌人与謝野晶子、画家石井柏亭に当時の学校令に縛られない自由でより創造的な学校を作ることを打ち明ける。両者は大いに賛同し、1921年、ホテル用地として伊作が買ってあった駿河台の土地に[3]文化学院を創立。当時の中学校令や高等女学校令に縛られず、一流人たちによる芸術・学問の教育を行う快活で自由な学校をめざした教育を開始した。

詳しくはWikipediaを見てほしい。

西村伊作 - Wikipedia

オカルトは、この伊作ちゃん。

私も伊作先生は会ったことがある。
先生の書斎だった場所が、今は保健室(とは名前だけでベッドがある部屋)
になっていたんです。
体調が悪くて寝ていたら、気配がする。
目を開けたら、おじさんがにこやかに眺めておられる。
当時の文化生は伊作が出ることを知っているので

あ、伊作先生だ……

と寝ぼけて思っていた。

そして伊作先生は、特に講堂が好きだった。
しかも、講堂に女の子だけいるときにひょっこり見にくる。

お恥ずかしながら母も文化学院卒業生で、この話をしたところ

「ママの頃から、伊作先生は男の子がいたら来なかったって有名だよ」

化けても、女の子しか会えない伊作先生は、オカルトなのに
生徒の間では、

「あ、昨日さー伊作いたわ」

と馴染んでしまったし、ちょっとしたアイドルだった。

当校の、というか西村一家は見事なイタリア気質だったようです。
学長先生もイタリア気質だったけど、創設者がイタリア気質。

伊作先生が言ったことばは

「夕暮れがあのアーチにかかって、その道を女学生が通ったら……きれいだよね」

伊作先生、あんたの学校、共学です!!!

 

こんな学校がね、昔あったんだ。

先生も生徒もめちゃくちゃ社会不適合者なのかもしれない。
こんなものは教育ではないと言われるかもしれない。

でも、今も胸に残る学長先生のことばがある。
私が卒業して、学校は資金難で買収され、学長の座を降りたときのこと。

文化学院の教育は、自分で良く生きられる人間を創る教育で
職業に都合のよい学校ではない。
これが社会の人たちにとっては、ピンとこないのである。

コンビニでうまくできたものばかり喰っていたら
自分で作る味を知らない一生で終わる。
だから即席ラーメンの人生があたりまえの風潮となってるのである。

素朴に、いつも原点を忘れずに、
手作りで思想を深める。

それがここの教育です」

 

私の原点は、この学校だ。
だから何かに迷うと、原稿用紙に書いてコピーして送られてきた

ハチ学長先生のお手紙を読む。